忘れられた偉才・岩瀬忠震

第4回 黒船来航〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:墨田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

フェートン号の衝撃

これはワタシでも知ってる話だから調べたことを話しますね。嘉永6年(1853)に、マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船が、横須賀市浦賀に来航しました。

教科書にも書いてあるから誰でも知ってる話だよね。最初は横須賀の久里浜に来たんだけど、砂浜だったから浦賀沖に誘導したわけ。でもねぇ、アメリカの船が日本に来たのはこれが最初じゃないんだよ。

えっ、そうなの? いきなり知らない国の大きな船が来たからみんなビビったんじゃないの?

勿論、大型の軍艦を4隻引き連れてきたから「こりゃ本気だな」と誰もが思ったわけだけど、実は貿易目的のアメリカ商船は何度も出島に来ているんだ。これには当時の複雑な国際事情が関係している。当時日本との公式貿易をほぼ独占していたオランダ、正しくはネーデルラント連邦共和国が、1793年以降フランス革命軍に占領されて傀儡国家にされてしまう。その後ナポレオンが登場すると、フランスの影響力がますます強くなって、オランダ支配は1813年のネーデルラント連合王国樹立まで続くんだ。その間に東インド会社も解散させられたから、出島のオランダ商館も有名無実化していたわけだ。
じゃあ、その時オランダと日本の関係も無くなったってこと?

それが、オランダはフランスの属国化しても、日本との交易関係を守り続けた。しかし、これを気に入らなかったのがイギリスだ。この当時、イギリスはアジアの制海権をほぼ手中にしていたし、旧オランダ国王はイギリスに亡命していたから、オランダの植民地をフランスから取り返してくれと頼む。かつてオランダとの日本商戦に敗れて、出入り禁止になっていたイギリスはこの機に乗じて、何とかしてその権益を奪いたかったんだけど…。

うまくいかない理由があったのね。


出島に出入りを許されていたオランダ東インド会社の本拠地であるバタヴィア、今のジャカルタは依然としてオランダ、つまり実質的にはフランスの支配下にあったから、簡単には手を出せない。

でも、イギリスは日本の知らないところで貿易を邪魔するとか、いっそ船を襲っちゃえばいいじゃない。

キミも恐ろしいことを言うね。でも、それは確かにあり得る話だ。そこでオランダの商人達は一計を案じた。自分たちの船を出すと危険だから、中立国であるアメリカ国籍の船を雇って、その船にオランダの旗を立てて出島に向かわせたわけ。

はは〜ん。頭いいのね。それならイギリスも迂闊には手を出せないものね。

そんなわけで、寛政10年(1797)から文化4年(1807)までの10年間にアメリカ船が計13回出島に寄港している。

イギリスとしては、それを歯ぎしりしながら見ているしかなかったわけね。

ところがそうでもないんだ。業を煮やしたイギリスが強硬手段に打って出た。オランダ船の拿捕を目的として派遣されていたフェートン号が、大胆にもオランダの国旗を掲げて長崎に入港する。文化5年(1808)のことだ。

偽装船でまんまと侵入してきたのね。でも、誰かが気がつくんじゃないの?

それが、オランダ人ですら気がつかなかった。フェートン号は出迎えに行った2人のオランダ商館員を拿捕すると、今度はイギリス国旗を掲げて、出島の役人に物資の供給を要求したんだ。これは実質的な開国要求に近い。

それでどうしたの? もしかして一戦交えたわけ?


長崎奉行だった松平康英は激怒して、湾内の警備を担当していた鍋島藩と福岡藩にフェートン号の焼き討ち又は抑留を命じたんだけど、肝心の鍋島藩守備兵がわずか150人程度しかいないということがわかって、一気に腰砕けになった。

うわっ、情けない。どうしてそんなに手薄だったのよ。

要するに平和ボケですよ。それくらい何もない平和な世の中が続いていたわけ。結局食料の供給がなければ港内の和船を焼き払うというフェートン号からの脅迫に屈する形で、長崎奉行はフェートン号にお引き取り願ったというわけ。

ケガ人が出なくて良かったけど、日本側にとっては屈辱よね。

結果、松平康英は自ら切腹、鍋島藩の家老など数人も責任を取って切腹。鍋島藩主には100日の閉門という厳しい措置が取られた。しかし、その後もイギリス船の出現が相次いだから、幕府は文政8年(1825)に異国船打払令を発令することになったわけ。

結局、オランダとイギリスの関係はどうなったの?


異国船打払令を発令した年に、イギリスはバタヴィアを攻略して東インド全島を支配下に置いた。ここで、出島の商館とオランダ本国を繋ぐ糸は完全に切れてしまったんだ。だから当時の出島商館員たちはナポレオン帝国が没落するまで、7年もの間日本に放置されたわけ。

不安だったでしょうね。でも、それを追い返さなかった幕府側も立派と言えば立派よね。

幕府はヨーロッパ事情をかなり把握していたから、恐らくイギリスとフランスに対しては相当警戒心を持っていたと思うよ。それこそ「悪の枢軸国」としてね。その分、オランダに対しては同情的だったかもしれない。一方で、イギリスとフランスは当時清国、つまり中国にかかりっきりだったから、その間隙を縫う形で新興国・アメリカが日本に入ってくる余地があったというわけだ。

←江戸時代の銅版画に描かれた長崎出島

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