忘れられた偉才・岩瀬忠震

第14回 日露和親条約〜その3

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:墨田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

誤解が生んだ拉致事件

蔵三さん、また読者の方からメールです。「最近の中国や韓国の報道に触れる度に、江戸時代の日本人が外国からの脅威に対してどう立ち向かったのか、とても興味深く、毎回連載を楽しみにしています。まだまだ暑い日が続いていますが、お体に気をつけて楽しいお話を聞かせて下さい」

クックック…(泣)。有り難いなぁ。メールと言えばクレームばかりかと思っていたのに、そういう正しい評価をして下さる人もいるわけだ。今回の話も、現在の北方領土問題と深くつながっているからねぇ。そういうファンの皆様の為にも、昔の日本人の外交力を正しく伝えないとイカンな。では、話を始めよう。安永2年(1778)蝦夷地に現れたロシア船の通商要求に対して、松前藩は拒否、無視を続けるんだけど、ロシアの南下にだんだん幕府が気づき始めた。

松前藩は秘密にして、アイヌとの交易という既得権益を守りたかったのよね。


そう。でも、ロシア船の来航は奥州諸藩の間では既成事実だったから仙台藩の藩医だった工藤平助が『赤蝦夷風説考』という詳細なレポートを書くと、これが当時の最高権力者・田沼意次の目に留まる。事態を重く見た田沼は早速、蝦夷地調査を命じるんだけど、これは天明6年(1786)の田沼失脚によって頓挫する。これでまた“ロシア対策”が遅れるわけだ。

ははぁ。その時ロシアが攻めてこなかったからいいけど、今も昔も外交上の“政治的空白”って怖いのね。

しかし、蘭学者を中心とした“海外通”の間では、盛んに欧米の脅威が叫ばれていたからね。同じく仙台藩医だった林子平が『海国兵談』を著して、幕府の防衛意識の低さを指摘した。すると今度は松平定信が「幕府批判は許さない」ということで発禁処分にする。

それでまた遅れちゃったわけね…。



日本の国内事情なんかロシアは知らないからね。天明3年(1783)には船頭・大黒屋光太夫とその一行がアリューシャン列島に漂着、ロシア人に助けられ、手厚く保護された光太夫は女帝エカテリーナ2世に謁見まで許される。

ただの船頭さんに皇帝が直々に会うってことは、ロシアは相当日本に興味があったのね。


少なくとも光太夫は他国の船に体当たりするような凶暴な船頭ではなかったし、人格に優れ、読み書きもできる人だったから現地でロシア語を覚え、多くのロシア人と友情を育んだようだ。ロシア側は寛政4年(1792)に、光太夫らを引き連れ、アダム・ラクスマンを大使として根室に上陸、再度通商を求めるんだけど、松平定信からは「長崎を窓口として交渉に応じる」という返答だった。結局ラクスマンは長崎には寄らずに帰るんだけどね。

光太夫さんたちは帰ってこれたの?



15人の漂流者のうち、10年の歳月を経て帰国できたのは光太夫を含めて3人だけ。そのうちの1人は根室で亡くなった。江戸に送られた光太夫は緊迫する北方情勢と、ロシアの国内事情について聞き取り調査を受ける。これを担当したのが蘭方医の桂川甫周だ。

それで多少は幕府にも危機意識が生まれたのかな?


定信の対応はあくまで一時しのぎだったけど、幕府にとって生のロシア情報は貴重だったと思うよ。北方の脅威を感じた幕府により、寛政11年(1799)、遂に松前藩の恐れていた「領地替え」の命が下って、蝦夷地は幕府直轄になる。それでやっと、最上徳内や近藤重蔵による本格的な北海道探検が始まるわけ。

あはは。確かに当時の北海道だったら、広いし、人もあんまりいなかったでしょうから、調査って言うよりは“探検”よね。

まぁ、これに関してもさまざまなエピソードがあるんだけど、それは置いといて、定信の言葉を信じたロシアは文化元年(1804)、世界一周の途上であったニコライ・レザノフを大使として、長崎に来航。ところが当の定信はすでに失脚していたから、代わりに老中・土井利厚が対応することになった。

もしかして鳩山さんの「トラスト・ミー」みたいな話? 約束した人が政権交代すると、約束も意味がなくなるみたいな…。

その通り。困った土井は林述斉に相談する。ペリーとの交渉役・林復斎の父にして、本編の主人公・岩瀬忠震の祖父でもある。述斎は「鎖国の法は曲げられないが、約束は約束なのだから、礼節を持って説得に当たるべき」と説く。しかし土井はわざと横暴な対応をすれば怒って帰るだろうという無茶な判断をする。

そんなことして、ロシアが戦争をしかけてきたらどうするのよ。


土井には武力ではひけを取らないという自信があったようだね。この自信が後で崩れることになるんだけど…。結局、漂流民の津太夫一行まで送り返してくれたロシアに対して、幕府は出島に半年もの間拘束、十分な食糧も与えずに追い返してしまう。ちなみに、この時にロシアとの交渉に当たったのが当時の長崎奉行で、「遠山の金さん」こと遠山景元の父、景晋だった。

ひどいわねぇ。約束は破るし、恩返しもしないし…。


痛い目にあったレザノフは、ロシア皇帝に日本への「武力開国」を上奏する。これはすぐに撤回されるんだけど、レザノフの部下、フヴォストフが文化3年(1806)に樺太の番所を襲撃、翌年には択捉島に駐留していた幕府軍を攻撃する。

あらら、ついに戦争状態になっちゃったのね…。


幕府は新設された松前奉行を中心に、周辺諸藩から3000人を動員するんだけど、何しろ“平和ボケ”で戦い慣れていない上に厳寒の北海道にも不慣れだったから、知床に駐留した津軽藩士70名が病死という悲劇が起こってしまった。

あら〜、土井さん、面目丸つぶれね。



ロシア皇帝としては、武力衝突は本意ではなかったから、文化5年(1808)に撤退を命じ、フヴォストフを処罰することでこの衝突は落着を見る。しかし、キミの言う通り、一方的にやられっぱなしで、メンツを潰されたのが幕府側だ。“赤蝦夷憎し”という気運が高まって、文化8年(1811)にディアナ号で千島列島の測量に来ていた軍人で探検家のヴァーシリー・ゴローニン艦長を国後島で拘束、函館に幽閉した。

その人も何か乱暴なことをしたの?



いや、何もしていないから、本人もすぐに帰されるだろうと思っていた。しかし、幕府としてはフヴォストフの一件があるから帰すわけにはいかない。そこでディアナ号の副艦長・ピョートル・リコルドは、日本人漂流民と交換にゴローニンを帰すよう、日本人通訳に託すんだけど、この通訳がどういうわけか「ロシア人は全員死んだ」と言う。不可解に感じて再度通訳を派遣したら今度は帰ってこない。業を煮やしたリコルドは、たまたま国後に来ていた函館の豪商・高田屋嘉兵衛を人質として拉致する。

全然関係ない人が巻き込まれちゃったのね。



この高田屋嘉兵衛という人物が事件に巻き込まれたことは、嘉兵衛の人生にとっては最悪の出来事だったけど、当時の日本にとって、たまたまこの人がいてくれたことは最大の幸運だった。いろんな意味で、嘉兵衛は江戸時代最高の民間外交官だったと言っても過言ではない。その話はまた次回に。

  ニコライ・レザノフ(右)とヴァーシリー・ゴローニン(左)の肖像画

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