忘れられた偉才・岩瀬忠震

第13回 日露和親条約〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:墨田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

忍び寄る大国・ロシアの影

ずいぶん夏休みが長かったですね、蔵三さん。掲載予定が10日もずれてますよ。



日本人はさぁ、働き過ぎなんだよ。いまどきの先進国は2週間から1カ月は休むのがフツーなの。今回のテーマであるロシアだって、夏は家族でのんびり過ごすんだよ。


蔵三さんの場合、家族いないでしょ。



なんだよ、家族がいないと休んじゃいけないっていう法律でもあんのか。



あはは。こないだ○○部長が「アイツはこのまま永久に休んでもいいんだけど…」って言ってましたよ。


何だと! ○○め、今に見てろよ。頭に来たから今回もリキ入れて行くぞ。まずは日露関係のはじまりからだ。歴史は意外に古いんだ。日本が平安時代の頃、アイヌを通じて奥州藤原氏が中国なんかと貿易をしていた形跡があって、そこにカムチャッカ半島の先住民族が介在していたという話もある。

平安時代って、本当に古いのね。その頃ロシアっていう国はあったの?



まだないね。ロマノフ王朝が1613年から始まって、正式にロシア帝国になるのが1721年だから、日露関係と呼べるのは日本の江戸時代以降だろうね。


その頃ロシアは日本という国を知っていたの?



1701年に漂流してきた伝兵衛という日本人を助けたことで、初めて日本の内情を知ることになる。しかも、その後伝兵衛を講師にしてサンクトペテルブルクに日本語学校まで開くという熱の入れ方だった。

どうしてそこまで熱心だったのかな…。



ロシアには長年の悲願があった。それは不凍港の獲得だ。北極海はほぼ1年中氷に閉ざされているから、航路としては使えないし、港も冬は使えなくなる。日露戦争の時にバルチック艦隊が大変な遠回りをして、日本海に辿り着いた頃には疲れ切っていたという話があるだろ。もし北海道あたりに使える港があれば、だいぶ事情が違ってくる。

っていうことは、やっぱり侵略目的?



最初からそういう狙いだったわけではない。南下政策を推し進めたいピョートル大帝は、日本へ調査船を向かわせた。最初の一隊がベーリング海峡の名前になったベーリング隊で、元文4年(1738)には別の隊が気仙沼や鴨川に現れて地元住民と接触している。下田沖にも現れているから、最初の「黒船」は実はロシア船だったということになるんだ。

その時幕府はどう対応したの?



当時は将軍吉宗の時代で、蘭学なんかは奨励したけど、外国船に対しては断固拒否という姿勢だった。しかし、ロシア船は調査が終わると国へ帰って行ったし、刺激的な行動も取らなかったから、さほど慌てた様子はなかった。地元住民が食糧や物資と交換した銀貨やトランプのカードをオランダ商館で照会して、ロシアの存在を確認したという程度だ。

じゃあ、最初にロシア人と接触したのは民間人だったのね。



当初の日露関係はむしろ民間人が主役と言っていい。江戸時代の中頃までは、蝦夷地、つまり今の北海道は詳しい調査もされていなかったし、蝦夷地は松前藩の管轄ということで、幕府は家康の時代からアイヌとの交易は特別に許可していたけど、特に重要視もしていなかった。

どうしてそんなに関心がなかったの?



北海道は米が獲れないからさ。石高の付けようがないんだ。だから収入源として貿易を認めざるを得ない。それをいいことに、松前藩はアイヌを酷使して漁業に従事させたり、商人から運上金を取って藩の利益にしていた。ところが、寛永年間から寛文年間にかけて、日本で物流革命が起きる。河村瑞賢によって開発された西回り、東回り航路の誕生だ。これで俄然、生産地、消費地として蝦夷地に注目が集まるんだ。

北海道の産物っていうと、やっぱりウニやイクラとか?



ウニやイクラは生ものだろ。当時は冷蔵庫も冷凍庫もないからね。最大の生産物は大量に獲れるニシンから油を絞ったあとの残りかす、これが肥料として重宝されたし、昆布や干しナマコ、毛皮なんかが主力だね。逆に蝦夷地には米や衣料、生活雑貨が不足していたから、これを積んで上方と蝦夷地を往復する北前船は「動く総合商社」だったわけ。ところで、ニシンと昆布って聞いて何を思い出す?

ニシンの昆布巻きとか、ニシンそばとか…。



そう。北前船が北海道から上方へ運んできたのがニシンや昆布だ。そこから昆布だしという日本独特の旨み文化が発達した。そして、海産物の乏しい京都で喜ばれたのが身欠きニシンというわけだ。

なるほどね。日本国内でも「異文化交流」があったのね。



しかし、同じ頃に、カムチャッカ半島に定住し始めたロシア人達が食糧不足、物資不足を解消するために蝦夷地まで南下してきて、アイヌと接触し、頻繁に交易を求めるようになる。いわゆる『赤蝦夷』だ。さて、そうなると困るのが松前藩だ。

どうして困るの? 北前船が盛んになって商人からお金を取れるからウハウハじゃない。


ところが松前藩はロシア人の進出を秘密にしていたんだな。幕府にバレると、国防という観点から天領になって、自分の領地が没収されかねないだろ。そうこうしているうちにロシア側は着々と日本に開国を迫る準備を進めていたんだ。

                          ピョートル大帝の肖像画→

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